方丈記に、似た運命

— 懐かしい古典が、今、蘇る —

前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。明くる年は立


【原文】
前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

【訳】
前の年はこんな感じであったが、何とか年が暮れた。次の年は飢饉から立ち直るだろうと思っていたところ、今度は疫病までもが加わった。悲惨の状況はさらにひどくなり、都の賑わいや人々の暮らしは完全に跡形もなく消え去った。世の中の人々はみな飢饉にやられ、日が経つにつれて困窮していく状況は、「少水の魚」の例えがぴったりだろう。ついには笠をかぶり、足もともきちんとしていて、良い身なりをした人が、なりふり構わず家から家へと歩いていき、食べ物をもらっている。このように辛い目に遭って血迷ったような者たちが歩いているかと思ったら、すぐに倒れ伏してしまいました。土塀の端や道端に倒れて死んでいる者は、多過ぎてその数も分からない。死体を処理する方法も分からないので、死臭が辺りに充満している。その死体が腐敗していく様はまともに見ることができなかった。まして、河原などは無数の死体が置かれて、馬や牛車が通る道すらなかった。

【わがまま解釈】
今回も、養和の大飢饉のお話。

前の年はこんな感じで、何とか年を越すことができた。
それで、「来年は、良い年になりますように」と、みんなは願ったと思う。
もしかしたら、下鴨神社にも大勢の人がお参りに来たかもしれない。

で、年が明けた。
少しは、飢饉から立ち直るかと思っていたら、今度は、疫病が流行したらしい。
完全に、泣きっ面に蜂。
食糧は手に入らない。
仕方ないから腐ったものを食べる。
栄養失調になる。
浮浪者が溢れて、公衆衛生が悪化する。

で、状況はさらに悲惨となり、都は、その美しさ、華やかさを完全に失った。
まー、だいぶ前から失ってしたような気がするけど。
その悲惨な状況を「少水の魚」と書いている。
魚は、水中の酸素を吸って生きている。
その水が少ないということは、酸素も少ないということ。
つまり、生活が苦しいとか、いつ死んでもおかしくない状況にあるということ。

ついには、それなりのきちんとした身なりをした者ですら、なりふり構わず家々を歩き回るようになる。
そして、行った先々で、食べ物をもらっている。
こういう方たちは、ふつーなら、こんなことをするような身分ではないはず。
しかし、今は、大飢饉の最中。
身分の上下にかかわらず、生きていくためには、そこまでしないといけなかったんだと思う。

で、長明さんも、「あー、あの人もそれなりの身分の者なのに、ここまで身を落とすことになったか」などと思ったりしたのでしょう。
すると、突然、その人が、バタンと倒れてしまう。
もしかすると、それから間もなくして、亡くなった方もいるんじゃないだろうか。

まさに「少水の魚」だった。

それで、平安京では、こうやって倒れた人がたくさんいた。
通りには、たくさんの人が、亡くなったまま放置されている。
しかも、死体を処理する方法が分からない。
で、通りは、死臭が充満している。
死体が腐敗していく様は、見ることができなかった。
で、死体の置き場や処理方法が分からないので、とりあえず河原に運ばれたようです。
そのため、河原は、馬や車で通ることができなかった。

いやー、こんなんだから、さらに疫病がはやるんじゃないの?
朝廷でも、平家でも、源氏でもいいから、早く何とかして欲しいところか。
ところが、調べている内に、朝廷の役人さえも病気になったり、死んだ者がいるという記述を見つけた。

多分、そうなんだろう。
それなりの身分の者ですら、物乞いをしないと生きていけない状況。
それは、朝廷の役人もそうだったのかもしれない。
つまり、朝廷としても何とかしたかったけど、マンパワー不足が明らかだったのではないか。
しかも源平繚乱の中。

それで、はじめは、朝廷(後白河法皇)は、平家に対して、食糧の確保と都の治安を命じていたのだろう。
ところが、倶利伽羅峠の戦いで平家が敗れると、戦いに勝った木曽義仲が大軍を率いて都に入ってくる。
朝廷(後白河法皇)は、今度は、木曽義仲に食糧の確保と都の治安を命じる。
ところが、これがどうも大失敗したらしい。
ただでさえ都は食糧難の状況。
そこへ、木曽義仲が大軍を率いて上洛したから、食糧難が収まるはずがない。
むしろ、食糧難が加速される始末。
そうなると、当然、略奪(食糧の奪い合い)も増える。
玉葉によると、この時の都の様子は、次のような感じだったらしい。

最近は、生活できるのは武士だけで、それ以外の者は、身分の上下に関係なく、みんな山や田舎に逃げてしまった。
都につながる街道は封鎖され、都の周辺では田畑が荒らされ、食糧は奪われた。
都の寺社仏閣や、民家などもことごとく強盗の被害に遭った。
たまに、朝廷へ物資が届いても、それらも全て奪われた。

平たく言うと、平安京は、軍によって制圧されたということでしょう。
しかし、その軍が食糧を奪っていくので、都の人は都の外へと逃げ出したのでしょう。
木曽義仲は、都の解放軍ではなく占領軍に映ったことだろう。
あるいは、平家よりも始末が悪い存在だったのかもしれない。

このあたり、平家物語では、次のような記述がある。

都で木曽義仲の兵士たちが乱暴狼藉をするので、後白河法皇が、木曽義仲にそのことを注意した。
すると、木曽義仲は、
「食糧がないんだから、少しぐらい測量を奪っても致し方ないだろう。青田を刈って馬のエサにするのも問題はない。そもそも、大臣の屋敷や御所を襲ったわけでもない」

と、返答している。
で、これが、致命傷となり、木曽義仲も都を追われることになる。

話を戻して、「河原には無数の死体が置かれた」とある。
あまりに多くて、車(牛車)や馬で通ることができなかったらしい。
つまり「足の踏み場がないぐらい」という感じか。
で、この河原、どうも鴨川のことらしい。
昔から、鴨川の河原って、罪人を処刑したり、さらし首にしたり、戦争で亡くなった者の死体安置所だったり、飢饉や疫病で亡くなった者を置いたりするような場所だったらしい。
で、どうも一番最初は、平将門の首がさらし首になったことが始まりなんだそう。
しかも、伝説では、将門の首は、自分の身体を探して、東国へ飛んで行ったらしい。

関ケ原の戦いで敗れた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、源平の戦いで敗れた平宗盛、平清宗、それから、謀反の罪を着せられたと伝わる豊臣秀次、戦国時代のキリシタンなど、多くの者がここで処刑されている。
また、京都が戦場となった応仁の乱では、戦死した兵を鴨川の河原に運んだそう。

今でこそ、鴨川なんて言うと、若者がデートを楽しむ場だとか、鴨長明のゆかりの観光スポットだとか、鴨川納涼床とか、一度は訪れたい場所みたいな扱いになっている。
うーん、歴史を知ると、行きたいような行きたくないような。。。
ちなみに、僕は、一度だけ鴨川は行ったけど、霊的なものは全く感じなかった。

今回はこの辺で。

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